本音で接すれば本音が来る

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁36『あなたが、自分の本音を隠して、仮面をかぶったまま世間に接すると、鏡の法則によって、世間や相手も仮面の答えを返してくれるようになる。

 

みんな表面的、上っ面だけの関係を築いているなと感じたら、それはあなたが本音に仮面と言うフタをして、そのフタが「鏡の法則」によって忠実に映し出されているのである。

 

あなたが本音に近づいて接していけば、自ずと相手からも本音が返ってくるのである。』とある。

 

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鏡の法則」が忠実に働いているのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、相手に対しても相手の偽我に意識を向けることになり、相手の偽我が返ってくる。

 

偽我は価値観に基づく発想の領域だから、価値観は人それぞれで異なり、その領域で生きるのは、とても苦しいものになるね。

 

偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続けることで、相手に対しても相手の真我に意識を向けることになり、相手の真我が返ってくる。

 

真我はもともと一つの領域だから、その領域では調和の中で生きることになり、人生は素晴らしいものになる。

 

真我の自分で生きるのは、心が過去にも未来にも行かず、心が揺れ動かないので、常にエネルギーが満ちて豊かな自分でいることができる。

 

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神のメッセージ 2

 

現象面は心の反映に過ぎない

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁34『あなたが鏡の前に立つと、鏡はあなたをそのまま映してくれる。

 

顔は鏡が映してくれるから、汚れていたら鏡を見たら気付くことができる。

 

しかし、心はどうだろう?

 

あなたが見ている世界、つまりあなたの目の前に展開される現象面こそ、実はあなたの心を忠実に映し出してくれる鏡なのである。

 

外に起きていることに固定された意味は無いのである。

 

それをどう受け止めているかのあなたの心が意味を決めている。

 

つまり、外に起きたことで嫌な気持ちになったり、責める気持ちになったら、そう思う自分の心が現象面に鏡のように映し出されたということなのである。

 

あなたが見ている世界は、あなたの心の反映に過ぎないのである。』とある。

 

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目の前に展開される現象面こそ、実は心を忠実に映し出してくれる鏡なので、外に起きていることに固定された意味は無いのだね。

 

その意味が無いことに反応してしまうのは、心の中が想念や妄想でゴチャゴチャと混乱しているからで、その結果、目の前の現象に振り回されてしまう。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、心の中の想念や妄想は静まらない。

 

偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続けることで、心の中の想念や妄想を静めていく。

 

さらには、心の中が澄み切ってくると、エネルギーが満ちてきて、もともと豊かな自分に気づくことができる。

 

常に豊かな自分でいると、ただただ何もしなくても、それだけで喜びで一杯なのだね。

 

自然に物事の捉え方が素晴らしく変わっていく。

 

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神のメッセージ 2

 

常に真我の光が光っている

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁32『現象面が映画のスクリーンで、フィルムが心だとしたら、ではその心とはいったい何なのだろうか。

 

このフィルムにあたる心とは、過去の撮影現場によってフィルムに刻み込まれたもの、つまり私たちの過去の体験経験によって心に刻み込まれた記憶のことである。

 

これを、業とかカルマという。

 

では、そのフィルムにあてている光は何か?

 

それが「真我」である。

 

私たちは、常に真我の光が光っているが、それが過去に刻まれた記憶というフィルムにあてられ、その影が現象面に映し出されているのである。

 

そして現象面に現れることによって、そこから正しく真我(神)からのメッセージを読みとることによって消えてなくなっていくのである。』とある。

 

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常に真我の光が光っているが、それが過去に刻まれた記憶というフィルムにあてられ、その影が現象面に映し出されているのだね。

 

世の中はノウハウ本が数多くあり溢れているけど、それらのノウハウでは上手くいかないから、溢れている。

 

こうした方がいいよ、ああした方がいいよとか、いろいろやり方を勧めたり、より良い方法がないかと求め続けてしまうのは、今に生きていないからなんだね。

 

本当に今に生きていることができれば、ノウハウは不要であり、いかにノウハウが機能しないものかも分かってくる。

 

今に生きることができれば、自然に最適なものに導かれる。

 

今に生きるとは、この瞬間の動作が目的そのもので動作することであり、何かの目的の手段と決してなっていないことになる。

 

今に生きていないと、今この瞬間の動作は何かの目的の手段として動作してしまっていることになる。

 

これがずーっと続いてしまうのだね。

 

今に生きるためには、自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続ける。

 

そうすることで、内なる光の輝きが増してくる。

 

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神のメッセージ 2

原因である心に手をつける

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁30『映画を観ている時、もし気に入らない場面があったら、舞台に上がっていってスクリーンに映った映像に手をつけようとしても変わらない。

 

でも、後ろを振り向いて、映写機の中になるフィルムを替えたら、一発で変わるのである。

 

しかし、私たちは、日常の生活の中で、丁度、映画のスクリーンを一生懸命変えようとしている人がほとんどなのである。

 

私たちの目の前に起きる、あらゆる現象は、映写機の光がフィルムを通して映画館のスクリーンに映し出された映像のようなものである。

 

そしてフィルムにあたるのが、心である。

 

だから、目の前に気に入らない現象が起きているからといって、その現象そのものに手をつけるのではなく、まさに、原因である心に手をつけなくては、現象面は変わらないのである。』とある。

 

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葦原瑞穂著 黎明 上巻 頁27に『・・・五官から入ってくるあらゆる情報に関して共通していることですが、私達が外の世界を意識しているとき、それは外の世界そのものを知覚しているわけではなく、五官を通して入ってきた情報が、知覚システムの基本的なはたらきや、過去に造られた認識の様式の影響を受けながら、心の中に無意識のうちに表象を造り上げていること、つまり自分の心の創作物を知覚しているに過ぎないということを、注意深く理解するようにして下さい。』とある。

 

目の前に起きる、あらゆる現象は、 自分の心の創作物を知覚しているに過ぎないのだね。

 

心の中が想念や妄想でゴチャゴチャと混乱していると、目の前の現象も混乱したものとなり、その現象に振り回されることになる。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、心の中の想念や妄想は静まらない。

 

偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続けることで、心の中の想念や妄想が静まり、心の中が澄み切ってくる。

 

そうなると、目の前の現象に過度に反応することなく、自然体でいられて、常に穏かな自分でいることができるね。

 

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神のメッセージ 2

【新版】黎明 上巻

 

空間的な全体から捉えていく

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁28『宗教の協議は一般的に、悩んだり苦しんだりした人が、その波だった不完全な自分から、完全なる神を見ようとする。

 

しかし、不完全から完全を見ようとすると、完全なものまで不完全に捉えてしまうのだ。

 

山も低いところから見ると、部分の風景しか見えない。

 

高く上がるとそれだけ広く全体が見える。意識も、その一番高いところから見るのである。

 

一番高い意識とは、神意識、宇宙意識である。

 

その完全な意識で不完全と捉えていたものを見ると、不完全と捉えていたものの完全さが一瞬で見えるのである。

 

「この空間」というのは、あなたの家でもあるが、日本でもあるし、地球でもある、そして、宇宙でもある。

 

空間的な全体から捉えていくと全ての完全さが見えるのである。

 

真我は神意識である。神から全てを見たとき全てが完全な愛だと分かるのである。』とある。

 

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完全な意識で不完全と捉えていたものを見ると、不完全と捉えていたものの完全さが一瞬で見えるのだね。

 

知花俊彦著 世紀末を救う意識革命 頁161~162に『・・・あなたが一個だという利己的な個人だと思っているのならば、あなたは一個の力、一個人としての力しか存在出来ないのです。

 

利己主義としての自分が、皆からの独立した存在だと思っているなら、一個としての存在感を持っている限り、一個の小さな知恵と力しか持ち合わせていないのです。

 

あなたが無限の智恵と力を我がものとするためには、あなたが無限でなければならない。

 

無限の器をあなたが持つことによって、無限があなたに入るわけです。

 

このことは非常に大事なことです。

 

あなたが全体から分離して、一個という存在が、一個人の私という利己的なあなたがあるならば、あなたは永遠に苦悩の中に、苦しみの中に、分離の中に、迷いの内に、輪廻を繰り返す苦悩者として存在しなくてはならないのです。

 

しかし、その必要性は皆さんに本来はないのです。

 

あなたがこの一個という個人であっては困るのです。

 

その一個は全体と一体なんです。

 

この一個は全体でもあるわけです。

 

全体の中に存在する一個であり、同時にその一個は全体であるということを知らねばならないのです。

 

皆さん方は、神を迎え入れるのに、あなたが利己的意識だったら、どうして無限が入りますか・・・・・・。

 

あなたが無限と一体であるという無限意識にまで、意識を拡大し、あなたの器を広げることによって、無限を抱き込むことができるのです。・・・』とある。

 

目に見えるものだけを信じて、自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、その意識は個体という枠の中に留まってしまう。

 

全体から分離する方向の動きは、宇宙の法則に反するものであり、悩みや苦しみを生じさせることで、その間違いを気づかせようとする。

 

意識は自由自在なのだから、個体という枠に囚われずに、無限と一体であるという無限意識にまで、意識を拡大することで、無限の智恵と力が手に入るのだね。

 

誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続ける。

 

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神のメッセージ 2

本当の自分を一日でも早く知る

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁26『一般的な願望実現法は、現在のあなたから、将来のある地点になりたい自分を設定し、そこへ向かう。

 

しかし、自分が何ものなのか?

 

チューリップなのかバラなのかを知らずに、他人と比較した夢や目標を持つと、本来の役割で無いことに頑張って体を壊したり本末転倒な結果を生む。

 

大切なのは、天寿を全うし、肉体を去るときに、自分の人生を振り返って心から「素晴らしかった、最高だった、なんていい人生だったんだろう」と言える人生は何なのかを先に知ることである。

 

死から生を見て、時間的な全体をまず見るのである。

 

死ぬときには、金も土地も財産も肉体も家族も何もあの世には持っていけない。

 

その事実を体験して初めて本当に大切なものが浮き彫りになる。

 

そうして本当の自分「真我」を体感できる。

 

このことをまず一日も早く知って、その本当の自分で生き切るのが、人生の目的である。』とある。

 

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他人と比較した夢や目標を持つと、本来の役割で無いことに頑張って体を壊したり本末転倒な結果を生むのだね。

 

人と比べることをするのは、自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いているからになる。

 

5感の認識が強力だから分離感が生じる。

 

この分離感が意識の壁となっているのだね。

 

この分離感を前提とした個体意識を打ち破ることで、本当の自分(真我)に気づくことができる。

 

そのためには、常に偽我ではなく、真我に意識を向け続けることになる。

 

意識が拡大することで、分離感が薄れていき、個体意識から全体意識になっていく。

 

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神のメッセージ 2

 

意識の壁を打ち破っていく

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁24『私たちが、何かの状況を乗り切るときに、ブレークスルー思考といって、自らの発想の壁、限界を打ち破るといった発想がある。

 

このように、観念上の良い話などを聞いて、自分の今まで持っていた考え方や発想が崩れ、更にもっと広がっていく方法は、「横のブレークスルー」と言っている。

 

これに対して、真我を開発するとは、「縦のブルークスルー」である。

 

知識ではなく、意識の壁を打ち破っていき、意識の一番深いところ、魂の部分まで深く掘り下げていくこと、究極の意識、「真我」を体感することである。

 

そして真我の心が溢れ出せば、外から知識を入れることによって考え方を変えなくても、結果的に発想も考え方も広がってくるのである。

 

深く入れば結果的に広くなるのである。』とある。

 

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真我の心が溢れ出せば、外から知識を入れることによって考え方を変えなくても、結果的に発想も考え方も広がってくるのだね。

 

意識の壁を打ち破るには、波動を高める。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、波動は高まらない。

 

目に見える物質はエネルギーレベルが低く、そこに意識が向いていると、波動は高まらないね。

 

偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続ける。

 

偽我と真我で、どちらに意識を向けていることが長いかが重要であり、5感の認識が強力で、圧倒的に偽我が長ければ、意識の壁を打ち破ることは難しいね。

 

偽我を捨て去るぐらいで、真我に意識を向けることは、今までの自分が無くなっていくことになり、偽我が物凄く抵抗する。

 

その抵抗が意識の壁なのだね。

 

今日もナーダ音に意識を合わせ続ける。

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神のメッセージ 2