認識の枠を超えて物事を捉える

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ3」の頁64『自分を何と認識するか。

 

人には、肉体としての人、霊体としての人、神体(しんたい)としての人がある。

 

肉体の人とは五感で捉える人である。

 

姿、表情、声などで認識することができる。

 

もう少し深い捉え方をするのが霊体としての人である。

 

これは心、性格などとして捉えられるものである。

 

自分の本体を肉体として捉えると、自分はお金持ちだから優越感を感じるとか、自分は病気だから自信がないというような捉え方をする。

 

あるいは自分を霊体として捉えると、こんなに尽くしているのにわかってくれないとか、人見知りの自分はだめだと烙印を押してしまったりする。

 

人を肉体や霊体で捉えるということは、自分のセンサーが基準になるから、自分の認識の枠内でしか物事を見ることができない。

 

社会の価値観や教育されてきたことから外れていると、認めることができないという可能性がある。

 

では、どうしたらよいかというと、自分を神体として捉えるのである。

 

生まれながらにして宇宙のすべてと調和し、自分の周りのものと、もともとひとつであるという完全完璧であるという視点で見るのである。

 

頭で思えなくてもそれで押し通していけば、その方向に進んでいくのである。

 

なぜなら、それが真理であるからである。』とある。

 

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人を肉体や霊体で捉えるということは、自分のセンサーが基準になるから、自分の認識の枠内でしか物事を見ることができないのだね。

 

誰からも限定しなさと言われていないのに、目に見える肉体に意識を閉じ込めて、そこから物事を捉えるので、偏った捉え方になってしまう。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識を向け続けることになり、偽我の自分にインプットされたものをベースにして発想することになるので、絶えず変化している目の前の現象に対して、適切に対応できないのだね。

 

5感で捉えた目の前の現象に対して、過去に上手くいったやり方をしたとしても、上手くいかないのは、5感で捉えることができないところが異なっているからになる。

 

ある人の素晴らしいノウハウが、自分にとっては使えなかったりするは、前提条件(自分にインプットされているものやその時の状況など)が異なっているからになる。

 

だから、人から教えられた答えは、自分の答えにならない可能性が高い。

 

自分の答えは、自分の外側に求めるのではなく、自分の内側を見つめることで、その答えに気づいていく。

 

偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続けることになる。

 

誰かを頼る依存心を振り払い、真我の自分を一番にすることで、自分の本当の答えに気づいていく。

 

今日もナーダ音に意識を合わせ続ける。

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図解 神のメッセージ3