教えでは救われない

心の学校 佐藤学長の「生命の覚醒」の頁100~101に、『・・・宗教を一生懸命やっている人やその子どもは、かなりの確率で余計に苦しむ結果になっています。

 

これはなぜかというと、彼らは、”いい教え”を頭で学んでいるからです。

 

「人を愛しましょう」と頭で学んでも、実際には人を愛せない自分がいることを自覚すると、自己嫌悪にかかってしまうのです。

 

「どうして私には、こんな嫌な心があるんだろう・・・?」と、自分自身がなさけなくなってしまいます。

 

そして、その自分の欠点を隠して、いい所だけを見せようとするようになります。

 

そうなると、解決しなければならないことが、いつまで経っても解決しません。

 

また、”いい教え”を学ぶほど、他人の欠点がよく見えてきますから、人をさげすんで見たり、批判をしたりしてしまいます。

 

さらには、自分の子どもを、その”教え”の枠にはめ込もうとします。

 

親のいうことを聞こうとする子どもは、その枠から出られずに塞ぎ込んでしまいます。

 

逆に反発する元気のある子どもは、親から離れて不良になったりしてしまいます。

 

”いい教え”を学んでいる人は、頭だけで「もう、私はわかった」と思ってしまう傾向があります。

 

私の講義を聞いて、「うちの教えと同じ!」とうなずいて拍手をする人は、一番わかっていない人なのです。

 

ですから、それより改善できません。

 

教えというのは知識です。

 

しかし、この命の悟りは知識では得られないのです。

 

本当にわかってきた人は、グーッと何か熱いものが湧いてきたり、頭を抱え込んだりします。

 

そういう人は、大分わかりかけてきたということなのです。』とある。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)では、自分の中にある基準(固定観念、価値観、先入観、思い込み、拘りなど)に囚われてしまっている。

 

いい教えを頭で学ぶことは、その基準を増やすことになり、自我の強化とも言えるね。

 

それでは益々、心が曇ってしまうことになる。

 

命の悟りは知識では得られないのだね。

 

心と体を生かして頂いているものが、誰もに内在しているのだけど、心が曇っていると、その存在に気づけないね。

 

その存在が、本当の自分(真我、満月、まんまる)なのだね。

 

自分の中の基準を外して、心の曇りを無くしていくことで、本当の自分に気づくことができる。

 

そのためには、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分に意識を向け続ける。

 

今日も「真我の実践」を唱え続ける。

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