知識としての「究極の愛」

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ3」の頁122に、『真理の受け止め方の三つ目は、自分の知識の中に真理という知識を入れてしまうパターンである。

 

真理という知識が増えたのである。自分の考えや知識のバリエーションの中に、真理を、ひとつの考え方として置いてしまうのだ。

 

「人間はみな真我である」、「真我とは究極の愛そのものである」ということを、自分の知識のひとつとして入れてしまう、いわゆる、学びとしてしまうのである。

 

人の脳で捉えた、知識としての「究極の愛」であるから、当然、これは真理とは違うものである。

 

100人いたら、100人の「究極の愛」があることになる。

 

真理は、誰にとっても、何にとっても、普遍のものであるから、知識の真理は真理ではない。』とある。

 

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人の脳で捉えた、知識としての「究極の愛」は、真理とは違うものだね。

 

真我を学んでも、頭では理解できないものだから、その学びは、相手や自分を裁くための基準を自分中に植え付けていることになるかもしれない。

 

真我は学ぶものではなく、実践を通じて気づいていくものだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまってい自分(偽我)に意識が向いていて、偽我の自分が優勢だと、その偽我の自分に振り回されてしまう。

 

それに対応することに、一生懸命に頑張ってしまうのは、悩みや苦しみに耐える人生になるね。

 

年齢を積み重ねていくと、悟ったかのように、人生とはそうゆうものだよと思い込んでしまい、ガチガチに固定化してしまうね。

 

それでも、悩みや苦しみに耐えてしまうと、本当の自分である真我に気づけずに、一生を終えることになる。

 

だから、耐えられないほどの悩みや苦しみ、もしくは大病を患っている時は、真理に気づくことができる最大のチャンスなのだね。

 

それは、有難い宇宙からのメッセージになる。

 

人は、もともと真我なのだから・・・

 

昨日は、安城市で瞑想を行ってきたけど、人との出会いで、気づきが深まるね。

 

昨日の気づきは、「人は、もともと真我なのだ。」になる。

 

本当に、一点の曇りもなく100%、自分は真我なのだとなった時に、真我にチャンネルが合い、真我とのつながりを体感させられる。

 

昨年3月ぐらいに、その体感があった時は、宇宙から「おまえは、良く分かってくれたな。」と言われた感じがしたね。

 

今日も本当の自分に意識を向け続ける。

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