本当の強さは全体の力

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁56に、『強い人が強いとは限らないのである。


強い人とは、強くなろうと、自分ひとりの力をどんどん開発していくから、ある程度までは強くなれるが、人間には必ず限界が来るのである。


しかし、なんでも自分でやってしまおうとするので、その限界にぶつかり挫折してしまいやすい。


自分は弱いと思っている人は、自分ひとりの限界を自覚し、他人の協力を得ようとしたり、他の力を活用しようという発想になるので、多くの力を結集させて、結果的に人間一人では到底できなかったような大きなことが成し遂げられるのである。


弱い人ほど、大いなる本当の自分の力に目覚めやすいのである。


本当の強さは全体としてひとつの大いなる力のことである。』とある。


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弱い人ほど、大いなる本当の自分の力に目覚めやすいのだね。


自分で頑張ってやれる限界を早く自覚できることで、自分が自分だと思い込んでしまって自分(偽我)に意識を向けることが弱まり、他に意識を向けることで、本当の自分(真我、満月、まんまる)に気づきやすくなるのだね。


自分は自分で生きているという思いから、皆さんに生かして頂いていてると思い、さらには宇宙に生かして頂いている存在なのだと気づきやすくなる。


誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我、満月、まんまる)に意識を向け続ける。


今日も本当の自分に意識を向け続ける。

色即是空、空即是色

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁50に、『「知る」「信じる」「みえる」といった、私たちの人間の心を通して認識する段階を超越して、「無い」「在る」という世界がある。

 

般若心経では、色即是空、空即是色といって「色という物質的存在には固定的な実体が無い、しかし同時に無いということによって現象界の万物が成り立っている」といわれている。

 

つまり、全ては「無い」という真実がある。

 

しかし、では全ての実体が「無い」と頭で理解したところで、現実に私たちの目の前にはあらゆる現象があって、それが「無い」とは捉えにくい。

 

そこで、更にその奥に「在る」という捉え方がある。

 

これは、私たちの心が捉えている現象、その実態は確かに「無い」のであるが、それら全てが神の愛として顕れている、そこには全てが神の愛として「在る」のである。』とある。

 

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色という物質的存在には固定的な実体が無い、しかし同時に無いということによって現象界の万物が成り立っているのだね。

 

目の前の現象は、固定的な実体なのでは?と思うが、肉体の5感で認識したものは、真実の姿(実相)でなく、その1側面である仮相なのだね。

 

心を通じて、その仮相が、あたかも実相であるかのように思い込んでしまっているのだね。

 

だから、5感で認識した目の前の現象は、実相ではないのだけれど、そこには実相である神の愛が遍満している。

 

固定的な実体は「無い」のだけれども、、神の愛が遍満していて、それが「在る」のだね。

 

ありのままの自分とは、神の愛としてのものだね。

 

決して、自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)の自分ではない。

 

ありのままの自分を自覚するには、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我、満月、まんまる)に意識を向け続けることだね。

 

今日も本当の自分に意識を向け続ける。

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本質、事実、真実がみえてくる

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁48に、『「知る」世界、「信じる」世界の次の段階として「みえる」世界がある。

 

「みえる」世界とは、私たちがそのことを知ろうが知るまいが、信じられようが信じられまいが、事実として「みえる」ということである。

 

その「みえる」には、「肉眼」、「心眼」、そして「真(神)眼」がある。

 

例えば、赤いシャツを着た人を見たとき、事実として赤いシャツを着ている、と肉眼で捉えられる。

 

知る必要も、信じる必要も無い。また、その人の「心」がどのような状態かが摑めたら、そういった心の原因が然るべき結果を生むと結果が予想できるのは、心の眼、つまり「心眼」である。

 

そして、真我を開発していくと、そのものの本質、事実、真実がみえてくる。

 

これが「真(神)眼」である。

 

「真眼」でみると、あらゆる人・モノ・出来事が、完璧な神の愛として捉えることができるようになってくるのである。』とある。

 

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真我を開発していくと、そのものの本質、事実、真実がみえてくるのだね。

 

人はもともと真我で、常に真我のエネルギーで生かしてい頂いている存在なのだけれど、心の曇りが、そのことを気づかせないことになっている。

 

本当の自分である真我に気づいていくことを、真我開発とすれば、

 

ステップ1 : 心と一体

 

ステップ2 : 心を心でみている

 

ステップ3 : 真我で心をみている

 

のような大きく3つの状態に分けることができるね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いているのは、ステップ1であり、この状態だと、絶えず心を働かせていて、心にコントロールされてしまっている。

真我のエネルギーが、心を働かせることで消費され、心の奥底が満たされていない。その不足感を解消するために、自分の外側のものを求めることに、頑張って、頑張り過ぎてしまうのだね。

 

これでは、ますます偽我の自分を強化してしまう。

 

このことに気づいてねと言っても気づけるものではないので、偽我の自分の願望を達成するために、とにかく頑張って達成することができた経験が得られた時、心の奥底が満たされているかを感じてみることだね。

 

そうすることで気づけるかもしれない。

 

誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我、満月、まんまる)に意識を向け続けることで、ステップ2からステップ3へと変化していき、どんどん真我のエネルギーが満ちてきて、心にコントロールされるのではなく、心をコントロールできる自分になっていることに気づける。

 

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知る・信じるという世界

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁46に、『私たちが捉える世界には様々な段階がある。

 

「知る」という世界は、知ったことを基準にしていくので、長所としては「誠実である」ということである。

 

例えば科学者の姿勢は、同じ実験を繰り返して、実証を重ねたことを発表していうという誠実さがある。

 

しかし、欠点は「知らないことは認められない、見えないものは認められない」ということである。

 

「信じる」世界の長所は。

 

「早い、時間がかからない」ということである。

 

そのことを知ろうが知るまいが、「私はあなたを信じます」と思えた瞬間に、相手の全容を受け入れられたことになる。

 

しかし、欠点は「盲目」になる可能性があるのだ。

 

信じた相手が詐欺師だったどうなるか?

 

間違った方向を信じ込んでしまう可能性があるのだ。』とある。

 

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私たちが捉える世界には様々な段階があるのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、偽我の自分の中の基準(固定観念、価値観、先入観、思い込み、拘りなど)をベースに発想するので、物事を正しく捉えることができない。

 

「ありのままで良い」と言われても、偽我の自分で捉えた「ありのまま」は、偽我の基準のフィルターがかかった偏ったものだね。

 

正しく「ありのまま」を捉えるには、その基準を外す必要がある。

 

そのためには、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我、満月、まんまる)に意識を向け続けることだね。

 

「真我の実践」を唱えるのであれば、この唱え方が重要だね。

 

空念仏のようでは良くなく、この言葉の波動を響かせる感じで唱える。

 

マインド(心)を働かせずに唱える感覚が、体に染み付くと、とても上手くできるようになるね。

 

これは、とにかくやり続ける。

 

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心のゴミは出せば消える

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁44に、『家にある生ゴミ、汚いからといって、押し入れにいれて、そのまま放置しておくと、一見片付けたように見えて、やがて発酵して強い臭いを発する。

 

そして、まず家の中、つまり自分がその臭い臭いの影響を受ける。

 

やがて、その臭いが近所までとどいて他人に迷惑をかける。

 

嫌な経験、という心のゴミも、見たくないからといって、心の奥に押し込んで忘れてしまうと、ゴミが臭いを発するが如く、その影響が体に負担をかけ、根本解決ならない。

 

忘却は解決に繋がらないのである。

 

ゴミは捨てるときは臭って嫌な気分になるが、捨ててしまえばスッキリして、臭いもやがて消えていくのである。

 

心のゴミも、出せば消えるのである。』とある。

 

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心のゴミも、出せば消えるのだね。

 

心の中には、自分でも分からないようなゴミがある。

 

目の前の相手から、嫌な思いが湧き上がったとしたら、その嫌な思いに囚われず、そのようなゴミが、心の中にあったのだと流していくことだね。

 

そうすることで、心のゴミが消えて、そのゴミに気づかせてくれた相手には、有難いなと思えてくる。

 

その相手がいたからこそ、その心のゴミを消すことができたからだね。

 

どんどん心が浄化されて綺麗になっていくことで、想念や妄想が少なくなり、その結果として、心の奥底が満たされくる。

 

誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我、満月、まんまる)に気づいていけるね。

 

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八正道

八つ当たりの長期版

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁42に、『結婚しても「相手が誰でも何故か理由も無く離婚したくなる、幸せになるほど自分で壊したくなる」という思いに駆られ、実際に離婚し、また再婚した相手とも離婚寸前の女性がいた。

 

彼女は幼少の頃、浮気をしていた父親をとても恨み、母親の痛みの復讐を子供心に胸に抱いて育った。

 

しかし、頭では親には感謝しまようと教わっているので、恨む気持ちを無理やり心の奥の潜在意識に押し込みしまったまま、表面的には忘れたようになっていたのだ。

 

しかし、潜在意識は、誰彼の区別がつかず、父親への恨みが、そのまま夫に出たのである。

 

まさに八つ当たりの長期版ともいえるのである。

 

こうした、過去の体験という原因が、別の対象に同じ現象のパターンを繰り返してしまう性質になっているのである。』とある。

 

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過去の体験という原因が、別の対象に同じ現象のパターンを繰り返してしまう性質になっているのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていて、その自分の基準(固定観念、価値観、先入観、思い込み、拘りなど)をベースに発想していると、自分でも分からないような過去の体験の影響を受け、それから逃れることはできない。

 

自分は自分で生きていると言う思い込みが外れ、自分は宇宙に生かして頂いている存在なのだと、頭の知識ではなく、本当にそのようにしか思えなくなってくると、心の奥底から、宇宙からのエネルギーが湧いてくる。

 

頭の知識で、そのことを分かっていると言う思いが強いと、逆にそれがブロックとなってしまい、なかなか意識レベルでの気づきに繋がらない。

 

意識レベルでの気づきを起こすには、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我、満月、まんまる)に意識を向け続けることだね。

 

頑張ってしまうと、偽我の自分に意識が向いてしまうので、頑張ることなくやることが、とても重要なポイントになるね。

 

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八正道

直接原因と間接原因

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁40に、『業の概念は縁起といって、私たちがみている実態は存在せずに、さまざまな原因や条件が寄り集まって存在する、ということである。

 

例えば、花は直接原因(因)である種子と間接原因(縁)である生育環境によって、花という結果(果)として成立するのである。

 

この直接原因(因)が、私たちの過去の体験・経験等によって刻み込まれた記憶、つまり業・カルマである。

 

この直接原因(因)である業が、間接原因(縁)と結びついて結果(果)をもたらすのである。

 

その結果(果)は新たな因になるといった連鎖が続いていくのである。』とある。

 

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直接原因(因)が、私たちの過去の体験・経験等によって刻み込まれた記憶、つまり業・カルマなのだね。

 

偶然に思えるようなことも、全ては直接原因と間接原因からの結果となっていて、その連鎖が続いている。

 

業・カルマに何があるのかは分からないけど、結果である目の前の現象は、全て受け入れて、そこから学んでいくことだね。

 

業・カルマを浄化して、人生を素晴らしくしていくには、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我、満月、まんまる)に意識を向け続けることになる。

 

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八正道

YSブログ研究会