無尽蔵に愛を人々に放つ

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ」の頁20に、『「自分、自分、自分・・・」と、自分のことばかりを考える人はエゴの人である。

 

人がどう見ているかが気になり、悲劇的になり、ストレスが溜まる。

 

自らに壁を作り、個体化していく。

 

それに対し、「あなた、あなた、あなた・・・」と、いつもまわりの人に向かって愛を放つ人は、真の愛の人である。

 

自らの内にある真我の光をそのまま全体に向かって放つ人は、これからの愛の人である。

 

そういう人たちは、無尽蔵に愛を人々に放つことができる。

 

そして、自らにストレスが溜まることもまく、矛盾も生まない。

 

全体に向かって光を放つ人が、本当の愛の人なのだ。』とある。

 

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「自分、自分、自分・・・」と、自分のことばかりを考える人はエゴの人なのだね。

 

その自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、人がどう見ているかが気になり、悲劇的になり、ストレスが溜まるのだね。

 

自らに壁を作り、個体化していく、その個体意識からの発想で物事を捉えることになる。

 

どんどん不調和になっていくことになるね。

 

だから、偽我の自分に意識を向けるのではなく、本当の自分(真我)に意識を向け続けることで、自らの内にある真我の光をそのまま全体に向かって放つ人になっていく。

 

そうすることで、自らにストレスが溜まることもまく、矛盾も生まないのだね。

 

今日も本当の自分に意識を向け続ける。

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神のメッセージ

総てが全く違って見えてくる

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ」の頁18に、『現時点から未来に向かって目標を立てると、本来の自分の役割とはかけ離れた目標を、自分の欲や損得で立ててしまうことになる。

 

本来、目標というのは、もっとも遠い未来から立てるべきものである。

 

最終目的地が決まってから、そこへ辿り着く道順が決まるのである。

 

アメリカに行く時は成田空港へ、北海道に行く時は羽田空港である。

 

死ぬ間際に、心から「素晴らしい人生だった」と思えることが、人生の最終目的地だ。

 

そして、今日一日の生き方が変わってくるのである。

 

また、人は頭で神を知ろうとするが、不完全な心で完全な神が見えるはずはない。

 

完全なる神(宇宙意識)から人間を見、総てを見た時に、総てのものが全く違って見えてくるのである。』とある。

 

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人は頭で神を知ろうとするが、不完全な心で完全な神が見えるはずはないのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いて、そこからの発想では頭の考えとなり、想念や妄想で一杯になる。

 

偽我の自分に意識を向けるのではなく、本当の自分(真我)に意識を向け続けることで、想念や妄想を静めていく。

 

想念や妄想が湧き上がってきても、そこを相手にせず、第3者が見る感じで見続ける。

 

さらに、本当の自分(真我)に意識を向け続けることで、想念や妄想が静まってくると、もともと豊かな自分に気づくことができる。

 

心の奥底がエネルギーで満たされると、豊かな自分を感じることができる。

 

そこからの発想で生きることで、物事の捉え方が変わり、総てのものが全く違って見えてくるのだね。

 

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神のメッセージ

真我から自然と湧き出る発想

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ」の頁16に、『今までの社会では、頭で考えたことを実現できることを素晴らしいことと言い、それを実現した人のことを成功者と呼んできた。

 

しかし、それならば、犯罪者でも成功者になってしまう。

 

人が頭に描くことは、どうしても欲や損得勘定に基づいたものになってしまう。

 

例えば、「この商品を売ろう」と頭に描いた時には、自分や会社のことしか考えていない。

 

他人を犠牲にしたり、不調和を生み出すものとになる。

 

それに対し、真我から愛が溢れてきた時、自然と湧き出る発想というのがある。

 

そこから生み出されたものは、総てが愛の生産物なのである。

 

だから、必ず他人にも喜ばれるのである。

 

そして、それは喜びに溢れ、悩みもなく、完全に調和されたものなのである。』とある。

 

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人が頭に描くことは、どうしても欲や損得勘定に基づいたものになってしまうのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いて、個体意識からの発想になってしまっている。

 

宇宙からすると、それは不調和を引き起こすものなのだけれども、5感の認識が強固で、それらが全てあると囚われてしまっている。

 

そのため、分離感を持った個体意識からの発想になってしまう。

 

個体意識からの発想は、不調和なものを引き起こすので、悩みや苦しみが生じて、病気になったりする。

 

それらを宇宙からのメッセージと解釈して、生き方を見直すことができると良いね。

 

宇宙の法則に沿って生きることの大切さに気づくことができると、偽我の自分に意識を向けるのではなく、本当の自分(真我)に意識を向け続けることで、真我の自分に気づいていく。

 

真我のエネルギーで生かされてことに気づき、もともと豊かな自分に気づいていくことで、物事の捉え方が変わってくる。

 

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神のメッセージ

細胞に染み付いた記憶の浄化

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ」の頁14に、『人の精神構造は、「観念」「業」「真我」の三層から成り立っている。一番表面の「観念」とは、どこかから入れた情報や知識から成り立っている。

 

その奥の「業(カルマ)」は、「遺伝子の記憶」と言い換えてもいい。

 

先祖代々受け継がれた遺伝子の記憶と、前世の記憶を土台として、親による育てられ方や過去の経験など総てが、記憶として細胞に染み付いている。

 

その記憶が、ある条件が揃った時に、一瞬にして蘇るのである。

 

それが、人から出てくる「心」である。

 

この心を変えない限り、人の人生は変わらない。

 

そして、さらにその奥にあるのが、「真我(神の心)」である。

 

「真我」は、宇宙意識であり、愛であり、光そのものでもある。

 

この「真我」が奥から湧き出てきた時、初めて、人の業は光に変わるのである。』とある。

 

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先祖代々受け継がれた遺伝子の記憶と、前世の記憶を土台として、親による育てられ方や過去の経験など総てが、記憶として細胞に染み付いているのだね。

 

瞑想を継続していくと、体の中のエネルギーの流れを感じることができ、その流れの音が聞こえてくる。

 

体の中のエネルギーの流れで、滞っている所が分かり、自然とその滞っている所に意識が向いて、そのエネルギーの流れを良くしようとしている。

 

その滞っている所は、何かに執着していることが原因であり、それが細胞レベルで染みついているのだね。

 

「真我の実践」とか善き言葉を唱えて、その滞っている所を真我の光で、エネルギーの流れを良くしていく。

 

体の中のエネルギーの流れが悪いと、バランスが悪くなり、不調和になっていく。

 

善き言葉の唱え方は、とても重要であり、唱え方が悪いと、逆効果になると感じている。

 

善き言葉は、宇宙から唱えさせていただいている感じで唱える。

 

想念や妄想は、粗い波動でありエネルギーのレベルが低い。

 

善き言葉であっても、どのような意識で唱えるかが重要なのだね。

 

同じ言葉であっても、言葉を発する人の意識の違いで、響いたり響かなったりした経験はあるかと思う。

 

響かない場合は、善き言葉に、想念や妄想の粗い波動が乗ってくるのだね。

 

人間の心を超えて、善き言葉を唱える。

 

そのためには、自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続けることだね。

 

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神のメッセージ

人生には二つの道がある

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ」の頁12に、『人生の道には、二つの道がある。一つはエゴの道、もう一つは真我の道である。

 

エゴの道とは、自我を出し、自我の満足のため、自分を守るために動く道である。エゴの道を歩むと、人間関係に苦しみ、病気になり、不調和を生む。

 

エゴの道を突き進むと、その先は崖である。真我の道とは、自らが愛そのものになり、愛で生きる道である。

 

真我の道を歩むと、人間関係も仕事もスムーズに進み、健康になり、調和を生む。

 

真我の道は、黄金の道である。

 

人は、エゴの道か真我の道のいずれかを歩んでいるのである。

 

あるいは、どちらも歩まず、分岐点で迷って立ち往生しているのである。

 

両方の道を同時に歩むことはできないのだ。』とある。

 

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エゴの道とは、自我を出し、自我の満足のため、自分を守るために動く道なのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いて、そこからの発想ではエゴの道を生きることになる。

 

自分の中の基準(固定観念、価値観、先入観、思い込み、拘りなど)の囚われが強くなり、どんどん不調和になっていく。

 

その結果として、悩みや苦しみが生じ、病気になったりするのだね。

 

真我の道で生きるには、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向けることになる。

 

そうし続けることで、自分は自分で生きているのではなく、宇宙に生かされている存在なのだと思えてくる。

 

自分の内側から、心の奥底から、エネルギーが満ちてきて、もともと豊かであった自分に気づくことができる。

 

その豊かな自分からの発想で生きることが、真我の道で生きることなのだね。

 

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神のメッセージ

自分の価値観が消える

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ3」の頁126に、『真理の受け止め方の五つ目は、真理を引き出したときに、自分の価値観が消えるパターンである。

 

これが、真理の正しい受け止め方である。

 

真理は、みな等しく真我であるということである。

 

真我は、究極の愛、喜び、宇宙の心である。

 

そこには矛盾などないのであるが、私たちの業やカルマがフィルターになって物事が歪んで見えるのである。

 

学びも真理ではない。

 

宇宙をいくら学んでも、それは知識の宇宙であって、真の宇宙ではない。

 

脳で考えても真理は絶対にわからないのである。

 

しかし、真我が出てきたときに価値観は消える。

 

真我は脳で考えて出せるものではない。

 

真我の実践をしたときに、自分の考えや価値観が消えるのである。

 

そうなったときに、初めて、真理で生きていると言えるのである。』とある。

 

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真我には矛盾などないのであるが、私たちの業やカルマがフィルターになって物事が歪んで見えるのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、そのフィルターが強固なもになってしまう。

 

だから、1日、24時間に、どれだけ本当の自分(真我)に意識を向け続けることができるかが重要だね。

 

具体的には、「真我の実践」を唱えると良いね。

 

唱え方は、宇宙に唱えさせていただいていると言う感じになる。

 

実際に唱え続けることで、唱え方が進化していくね。

 

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図解 神のメッセージ3

真理はノウハウや手段でない

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ3」の頁124に、『真理の受け止め方の四つ目は、真理という知識の中に自分の価値観を入れてしまうパターンである。


真理を言葉や知識として学んで、自分なりの真理という価値観を基調とした上で、他の良いと思われる知識や感が型を、都合よく混在していくのである。


真理は、知識の入力、いわゆるインプットではなく、自身の中からのアウトプットであるから、真理を頭で学ぶことはできない。


真理は、ノウハウでも、何かの手段でもない。


にもかかわらず、真理を一つの考え方として捉え、他にもよさそうなものがあれば、それも取り入れていくのである。


一見、真理を語っているように見えて、実は、頭の世界だけの話なのである。


学びの世界と同様、知識の中にない出来事に遭遇した場合には、対応ができない。』とある。


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真理は、ノウハウでも、何かの手段でもないのだね。


20年ぐらい、私は手段として捉えていたので、思い込んでしまっていると、なかなかその思い込みは外れないね。


手段として捉えていることは、自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)を、なんとかしようとする、偽我の実践なのだね。


偽我の自分に意識が向いていて、頭の考えを超えることができない。


その結果として、自分の中の基準(固定観念、価値観、先入観、思い込み、拘りなど)に基づく発想をし続けることになる。


その基準で自分や相手を裁くと言う、とてもエネルギーを消耗する生き方になってしまう。


では、どうしたら良いのだろうか?


偽我の自分に意識を向けるのではなく、真我の自分に意識を向け続けることだね。


真我とは、誰もに内在する究極の全体意識になり、そこに意識を向け続けることで、本当の自分に気づいていく。


本当の自分は、愛そのもので、そのエネルギーで生かされいることを気づいていく。


その本当の自分からの発想で生きることで、人生が素晴らしくなっていくね。


今日も本当の自分に意識を向け続ける。

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