心が現象面に鏡のように映る

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁34『あなたが鏡の前に立つと、鏡はあなたをそのまま映してくれる。

 

顔は鏡が映してくれるから、汚れていたら鏡を見たら気付くことができる。

 

しかし、心はどうだろう?あなたが見ている世界、つまりあなたの目の前に展開される現象面こそ、実はあなたの心を忠実に映し出してくれる鏡なのである。

 

外に起きていることに固定された意味は無いのである。それをどう受け止めているかのあなたの心が意味を決めている。

 

つまり、外に起きたことで嫌な気持ちになったり、責める気持ちになったら、そう思う自分の心が現象面に鏡のように映し出されたということなのである。

 

あなたが見ている世界は、あなたの心の反映に過ぎないのである。』とある。

 

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外に起きていることに固定された意味は無く、見ている世界は、心の反映に過ぎないのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、そのことを頭では理解しても、本当にそうだとは思えない。

 

本当にそうなのだと思えるようになるには、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続けることになる。

 

心の中の想念や妄想による混乱が静まってくると、心の中の動きが見えてきて、外に起きていることに対して、勝手に反応しているだけなのだと分かってくる。

 

そのことによって、自分自身をより良く知っていくことができ、さらには、いろいろな気づきが生じることになる。

 

そのプロセスで、意識が高まっていくことが感じられ、そのことが最高の喜びであると捉えることができるようになっていく。

 

今日もナーダ音に意識を合わせ続ける。

 

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記憶というフィルムを奇麗にする

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁32『現象面が映画のスクリーンで、フィルムが心だとしたら、ではその心とはいったい何なのだろうか。

 

このフィルムにあたる心とは、過去の撮影現場によってフィルムに刻み込まれたもの、つまり私たちの過去の体験経験によって心に刻み込まれた記憶のことである。

 

これを、業とかカルマという。では、そのフィルムにあてている光は何か?それが「真我」である。

 

私たちは、常に真我の光が光っているが、それが過去に刻み込まれた記憶というフィルムにあてられ、その影が現象面に映し出されているのである。

 

そして現象面に現れることによって、そこから正しく真我(神)からのメッセージを読み取ることによって消えてなくなっていくのである。』とある。

 

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現象面に現れることによって、そこから正しく真我(神)からのメッセージを読み取ることによって消えてなくなっていくのだね。自分や相手を「こうしなければ」「ああしなければ」と責めていたとすれば、囚われていたものに気づくことができる。

 

本来はバランス良く生きることができるのに、何かをやり過ぎてしまうのは、その何かに執着しているからになる。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、その囚われているものに気づくことが難しい。

 

偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続けることで、その囚われているものに気づいていく。

 

執着しているものが外れていくことで、重苦しい日々が、軽やかに生きることができるようになってくる。

 

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原因である心に手をつける

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁30『映画を観ている時、もし気に入らない場面があったら、舞台に上がっていってスクリーンに映った映像に手をつけようとしても変わらない。

 

でも、後ろを振り向いて、映写機の中にあるフィルムを替えたら、一発で変わるのである。

 

しかし、私たちは、日常の生活の中で、ちょうど、映画のスクリーンを一生懸命変えようとしてる人がほとんどなのである。

 

私たちの目の前に起きる、あらゆる現象は、映写機の光がフィルムを通して映画館のスクリーンに映し出された映像のようなものである。

 

そしてフィルムにあたるのが、心である。

 

だから、目の前に気に入らない現象が起きているからといって、その現象そのものに手をつけるのではなく、まさに、原因である心に手をつけなくては、現象面は変わらないのである。』とある。

 

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目の前に起きる、あらゆる現象は、映写機の光がフィルムを通して映画館のスクリーンに映し出された映像のようなものなのだね。

 

心の中が想念や妄想で混乱していると、目の前の現象も混乱して、それに振り回される生きることになっている。

 

それによって、エネルギーが消費することで、常に心の奥底では満たされていない感覚があり、それを解消するために、自分の外側への欲望が生じることになる。

 

しかし、ある欲望が仮に叶えられたとしても、自分の内側は満たされることはないので、また新たな欲望が生じて、その欲望は尽きなく、本当の幸せには至らない。

 

本当の幸せになるには、偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続けることになる。

 

やり続けることで、心の中が澄み切ってくると、目の前の現象にやたらと反応しまくり、それによって振り回されるようなことが無くなる。

 

重苦しい日々から、軽やかに生きることができるようになっていく。

 

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神のメッセージ 2

 

 

 

全てが愛だとわかる

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁28『宗教の教義は一般的に、悩んだり苦しんだりした人が、その波だった不完全な自分から、完全なる神を見ようとする。

 

しかし、不完全から完全を見ようとすると、完全なものまで不完全に捉えてしまうのだ。

 

山も低いところから見ると、部分の風景しか見えない。高く上がるとそれだけ広く全体が見える。

 

意識も、その一番高いところから見るのである。一番高い意識とは、神意識、宇宙意識である。

 

その完全な意識で不完全と捉えていたものを見ると、不完全と捉えていたものの完全さが一瞬で見えるのである。

 

「この空間」というのは、あなたの家でもあるが、日本でもあるし、地球でもある、そして、宇宙でもある。

 

空間的な全体から捉えていくと全ての完全さが見えるのである。

 

真我は神意識である。

 

神から全てを見たとき全てが愛だとわかるのである。』とある。

 

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完全な意識で不完全と捉えていたものを見ると、不完全と捉えていたものの完全さが一瞬で見えるのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分に意識が向いていると、不完全な意識となっている。

 

そのため、目の前の現象を歪めて捉えてしまい、上手く物事を進めることができずに、悩みや苦しみの多い生き方になってしまう。

 

そうならないためには、偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続けることになる。

 

やり続けることで、エゴが喜ぶことではなく、魂が喜ぶことを自然に選択できるようになってくる。

 

エネルギーが下がることは気分が悪くなり、エネルギーが高まることは気分が良くなるから、必然的にエネルギーが高まることを選択していく生き方になるのだね。

 

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神のメッセージ 2 

 

 

 

 

本当の自分で生き切る

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁24『一般的な願望実現法は、現在のあなたから、将来のある地点になりたい自分を設定し、そこへ向かう。

 

しかし、自分が何ものなのか?チューリップなのかバラなのかを知らずに、他人と比較した夢や目標を持つと、本来の役割で無いことに頑張って体を壊したり本末転倒な結果を生む。

 

大切なのは、天寿を全うし、肉体を去るときに、自分の人生を振り返って心から「素晴らしかった、最高だった、なんていい人生だったんだろう」と言える人生は何なのかを先に知ることである。

 

死から生を見て、時間的な全体をまず見るのである。

 

死ぬときには、金も土地も財産も肉体も家族も何もあの世には持っていけない。

 

その事実を体験して初めて本当に大切なものが浮き彫りになる。

 

そうして本当の自分「真我」を体感できる。

 

このことをまず一日も早く知って、その本当の自分で生き切るのが、人生の目的である。』とある。

 

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他人と比較した夢や目標を持つと、本来の役割で無いことに頑張って体を壊したり本末転倒な結果を生むのだね。

 

他人と比較することは、自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていることになり、肉体という個体をベースにした発想により、低い意識のままで留まってしまう。

 

心の中が想念や妄想で混乱して、それによるエネルギーの消耗が激しくなっている。

 

そのため、疲れやすく、何をやっても何か満たされない感覚がズッーと続くことになる。

 

そうならないためには、偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分に意識を向け続けることになる。

 

やり続けることで、心の中の想念や妄想が静まり、心の中が澄み切ってくる。

 

エネルギーの消耗が無くなると、自分の内側ががエネルギーで満ちてきて、豊かな自分に気づくことができる。

 

豊かな自分で在り続けることで、軽やかに生きることができる。

 

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神のメッセージ 2

 

意識の壁を打ち破っていく

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁24『私たちが、何かの状況を乗り切るときに、ブレークスルー思考といって、自らの発想の壁、限界を打ち破るといった発想がある。

 

このように、観念上の良い話などを聴いて、自分の今まで持っていた考え方や発想が壊れ、更にもっと広がっていく方法は、「横のブレークスルー」と言っている。

 

これに対して、真我を開発するとは、「縦のブレークスルー」である。

 

知識ではなく、意識の壁を打ち破っていき、意識の一番深いところ、魂の部分まで深く掘り下げていくこと、究極の意識、「真我」を体感することである。

 

そして真我の心が溢れ出せば、外から知識を入れることによって考え方を変えなくても、結果的に発想も考え方も広がってくるのである。

 

深く入れば結果的に広くなるのである。』とある。

 

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真我の心が溢れ出せば、外から知識を入れることによって考え方を変えなくても、結果的に発想も考え方も広がってくるのだね。

 

貧しい自分であるか、豊かな自分であるかで、発想は変わってくる。

 

貧しい自分であると、貧しさを解消するために、自分の外側への欲望が生じて、「こうしなければ」「ああしなければ」と心の中が混乱して、エネルギーを消耗している。

 

豊かな自分であれば、今、この瞬間、満足しているので、自分の外側への欲望は生じない。

 

そのため物事を偏らず、適切に捉えることができ、その結果として、上手く生きることができる。

 

豊かな自分で在り続けるには、偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分に意識を向け続けることになる。

 

やり続けることで、自分の内側がエネルギーで満ちてきて、豊かな自分に気づくことができる。

 

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神のメッセージ 2

 

人の心の色を通さない自分

心の学校 佐藤学長の「図解 神のメッセージ2」の頁22『あなたが「自分」と言うとき、そこには3つの自分がいるのだ。

 

自分で評価する自分。

 

他人が評価する自分(あなた)。

 

そして、真我を開いて初めて実感できる「本当の自分」である。

 

人が評価する自分(あなた)は、実はその人が見る自分(あなた)であって、あなたの実体ではない。

 

あなたが自分で評価する自分も、結局は、自分の心を通した思い込みの自分である。

 

いずれも、その人の心の色を通した自分である。

 

あとから付け加えた知識、価値観からでもなく、もともと備わっている真我が本当の自分なのである。』とある。

 

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自分で評価する自分も、結局は、自分の心を通した思い込みの自分なのだね。

 

自分が自分だと思い込んでしまっている自分(偽我)に意識が向いていると、思い込みの自分で生きることになってしまう。

 

思い込みの偽我の自分を喜ばせるための発想をベースに動くことは、宇宙の法則に沿っていないので、悩みや苦しみの多い、病気になる生き方になるのだね。

 

そうならないためには、偽我の自分に意識を向けるのではなく、誰もに内在する究極の全体意識、本当の自分(真我)に意識を向け続ける。

 

やり続けることで、波動が高まり、エネルギーに満ちてくる。

 

自分の内側からエネルギーが満ちてくると、常に豊かな自分で在り続けるので、自分の外側への欲望は生じなくなっていく。

 

「こうしなければ」「ああしなければ」という生き方から解放されて、自然に軽やかに生きることができる。

 

今日もナーダ音に意識を合わせ続ける。

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神のメッセージ 2